S47杉田州男
久しぶりの堺です。
堺は、社会人になって初めて住んだ町、家庭を持ち10年ほど生活しました。
今日と明日、堺東付近、旧堺まちなか、製鐵所と堺浜一帯、仁徳陵、土師や花田と、 思い出いっぱいの町を訪ねてみることにします。
堺東、高島屋まえの繁華街ですA①。
このあたりは、やや人通りが少なくなくなっただけで、あまり変わっていないようです。
ただ、市役所や裁判所周辺は大きく変わりました。
威容を誇る市庁舎ですA②。21階の最上階が展望ホールになっていて、堺一番のデートスポットとなっているようです。
市庁舎の21階です。
東側には住宅やマンションが延々と連なっています。向こうに見える山が二上山A③です。眼下にあるのは三国の反正天皇陵A④、
そして、圧倒的な存在感の仁徳陵A⑤や大仙公園A⑥へと繋がっています。大仙公園もずいぶんと緑豊かな公園になりました。
西側に廻ると、堺港A⑦が見えてきます。阪神高速湾岸線の向こうが新日鐵住金・堺製鐵所の出荷埠頭A⑧です。
もう夕方、薄茜色に染まる堺湾岸のサンセットA⑨がきれいでした。
今日は、チンチン電車阪堺線に沿って、堺のまち歩きを楽しむことにします。南宋寺から綾ノ町の山口家住宅までの3時間ほどのコースB①(出典:堺市観光部編「堺まちあるきマップ」)です
南宋寺B②です。
この瓦塀は今も記憶に残っています。南宋寺は1557年に三好長慶により建立された臨済宗・大徳寺派のお寺です。
これは南宋寺仏殿B③、大阪冬の陣で落命した徳川家康の遺体が葬られたという伝説が残っています。
ここは方丈前の枯山水庭園B④、ここで千利休や武野紹鷗らも修業したと伝えられています。
小手鞠の花が咲き誇りB⑤、南宋寺は春の静寂のなかに在りました。
お寺の木戸を抜け、電車道に戻ります。
うどんすきの「美々卯」B⑥です。200年続いた堺の味、全国区のお店になりました。
もう少し先にけし餅の小島屋B⑦があります。400年にわたり伝統の味を守り続けてきた老舗中の老舗です。
宿院の交差点に出ました。宿院の石灯篭B⑧です。この灯篭の横を抜けるのが当時の会社に行くときのルートでした。
このあたりには与謝野晶子の生家跡があります。道端に晶子の歌碑があります。
「海こひし 潮の遠鳴りを数えつつ 少女となりし 父母の家 (明治34年)」
明治のころはきっとこの宿院のあたりまで松原がせまっていたのでしょうね。
チンチン電車B⑨がきました。
おばあちゃんから赤ちゃんを抱っこしたママさんまで、すっかり、市民の足になっていました。宿院B⑩から綾ノ町まで乗りました。
旅籠町の清学院B⑪です。修験道の「講」が置かれ、寺子屋B⑫でもあったようです。
チベット探検家・河口慧海がここの出身です。
紀州街道近くの旧鉄砲鍛冶屋敷・井上邸B⑬です。
堺は、戦国時代から日本一の鉄砲生産地、江戸時代の鉄砲鍛冶工房が今も残っています。
この地域一帯は、古い町家と新しい民家が混ざり合い、昔懐かし雰囲気を残しています。
この一角に山口家住宅B⑭があります。江戸時代初期に建築された町家で、奉行所と町方・村方をつなぐ役割を担う庄屋屋敷であったようです。どうですこの土間に座敷、豪壮な空間B⑮をを作りだしています。
チンチン電車で大小路に戻ります。ここから堺駅に歩きます。
堺駅B⑯です。旧堺駅の面影は全くありません。大和川寄りに移って建てられた総合型駅ビルです。
久しぶりに同期の白畑耕蔵君に会いました。ピックアップしてもらって製鐵所へ向かいます。
堺製鐵所の南門B⑰に到着です。 目の前の建屋は大形工場B⑱です。冷却床のあたりでしょうか?
合併(新日鐵・住金合併2012年10月)から半年、会社名の表示もすっかり塗り替わっています。
製鐵所一帯は、1959年(昭和34年)八幡製鐵の堺進出から、半世紀をかけて造成、開発されてきた土地です。
写真C①は、1962年(昭和37年8月)操業を開始したころの建設現場全景です。
写真C②は、銑鋼一貫製鐵所が完成し、埋立地がその輪郭を現わしてきた1969年(昭和44年)ころの姿です。
写真C③は、埋め立てがほぼ完了した1994年(平成5年)ころの様子です。
そしてこの写真が現在の(2012年:平成23年)全景写真C④です。
かっての製鐵所埋立地、北泊地、コークス工場跡地には、液晶パネル関連施設、臨海公園、商業アミューズメント、サッカー・トレーニングセンターなどが誘致建設され、複合型の新しい造成臨海エリアが出現しています。
今、この一帯は「堺浜」C⑤と呼ばれています。
出典:堺北エリア開発整備協議会編資料
今日は、製鐵所南門を起点にして「堺浜」一帯をぐるりと回ってみることにします。
シャープ液晶パネル工場入口付近C⑥です。パネル工場ビル群が威容を誇っています。
外周道路を走ります。対岸は大阪市、関西電力・南港発電所C⑦。手前の堺浜を護岸するのは、嘗て大形工場で造ったテトラポットです。
先端部分にあるのが「海とのふれあい広場」C⑧です。今日は日曜日、親子連れで賑わっていました。
海側から撮影したシャープ液晶パネル工場C⑨です。周辺にはガラスパネルや印刷工場のビルC⑩が建ち並んでいます。世界最先端のパネル工場ではありますが、世界の大競争の中で苦心呻吟していると聞きます。
マリナ―側から見た北泊地、
奥が大阪製鐵・堺工場C⑪。かつて焼結工場があったあたりです。
サッカー・ナショナルトレーニングセンターC⑫です。旧大阪ガスのコークス工場跡地にあります。
南門付近に戻ってきました。
診療所C⑬です。
この右側が旧管理センター跡地C⑭です。2012年に解体され、現在も整地作業が続いています。
管理センターC⑮も「兵どもが夢のあと」、今は思い出に残るだけとなりました。
製鐵所を後にして、このあと仁徳陵に参拝して、三国ケ丘社宅、深井社宅、花田社宅の旧社宅巡りをするつもりです。
仁徳陵ですD①。参拝所付近は30~40年前に見た景観と変わっていませんが、周辺がよく整備され、陵の森が深くなった気がします。
三国ケ丘社宅跡地D②です。まだ広い敷地が残されていました。原っぱの向こうに高層マンションがポツンと建っているのが妙に印象的でした。
百舌鳥の踏切を越えて土師に向かいます。
土師のバス停付近D③です。左側には「グリル土師」という小さなレストランがありました。今は、民家がひしめく住宅街になっています。
1963年(昭和38年)の深井社宅周辺の航空写真D④です。田んぼのなかに社宅と寮があり、夏になると、カエルの大合唱でした。
かっての深井社宅入口、今は堺市立中央中学校D⑤となっています。
開設当時(1964年)の深井寮D⑥です。ちょうど中学の校舎のあたりに在りました。
卒業式も終わった3月の終わり、モクレンの花D⑦がきれいでした。
これより中百舌鳥を通って花田に行きます。
北花田の交差点D⑧です。地下鉄御堂筋線「北花田駅」です。かってこの辺は花田社宅D⑨、30棟もの社宅が建ち並ぶ大団地でした。
御堂筋線が乗り入れ、中百舌鳥、北花田地区が大阪の玄関口新大阪と地下鉄で結びつきました。イオンモール、阪急などの商業施設D⑩も進出し、堺の新しい中心地区へと変貌しています。周辺には高級集合住宅D⑪が立ち並び、かっての製鉄会社の大社宅の面影はまったく残っていません。
高度成長、鉄冷え、東アジア大競争。時代とともに、人、企業、地域が大きく変化しています。数百年前の文化や伝統がいまだに息づく堺ではありますが、歴史の中に埋もれようとしているものも数多くあった堺です。
「がんばれ堺製鐵所!」とエールを送りながら、人通りの絶えない地下鉄北花田駅D⑫へと急ぎました。
2013年3月、久しぶりに堺を訪ねました。堺東付近、旧市街まちなか、製鐵所と堺浜一帯、仁徳陵、土師や花田など、かって10年ほど生活した懐かしい町をぶらりと歩いてみました。
このホームページ「堺ぶらり歩き」は、2013年3月の堺訪問直後に作成した「DVD版」を、今回(2017年7月)ホームページ用に再編集したものです。
なお、製鐵所の名称は、現在は新日鐵住金和歌山製鐵所・堺地区ですが、この記事はDVD版と同じ2013年当時の堺製鐵所としています。
また、堺製鐵所関連の古い写真は、「堺製鐵所創立30周年記念写真集」より引用しています。
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